COMPANY会社紹介
COMPANY INFO|会社概要
社名 | 有限会社チョコレートショップ |
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設立 | 1942年7月 |
資本金 | 300万円 |
代表者 | 佐野 隆 |
従業員数 | 40名 |
事業内容 | チョコレート、生菓子、焼き菓子などの 製造販売 |
主要商品 | チョコレート |
HISTORY|沿革
2004
チョコレートショップ “本店”が
店屋町
から綱場町に移転。
2004年、60周年を記念して店屋町から移転。2階に製造部門を配し生産性を拡大。目の前に駐車場も設け店屋町時代以上にご利用頂きやすくなりました。現在の本店の誕生です。
チョコレートショップ本店の店舗情報を見る
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2009
“サロン・ド・ギフト”がオープン!
65周年を記念して、本店向かいに「サロン・ド・ギフト」がオープン。
(2018年6月、セントラル工場新設に伴い本店に機能を集約して移設されたため現在はございません)2011
2012
チョコレートショップ“ソラリア店”が
オープン!2012年、ソラリアプラザ1Fにオープン。警固公園に面しており、たくさんの方に親しまれました。
(2017年10月、「レ トロワ ショコラ パリ×チョコレートショップ」として館内移動&リニューアルオープンのため現在はございません)2014
ビヨンセの通算5作目『BEYONCÉ』発売を記念したスペシャルコラボに参画
女性アーティストとしてグラミー賞最多受賞の世界的スーパースターであるビヨンセの通算5作目となる『BEYONCÉ』の発売を記念し、ビヨンセをイメージし、華やかに仕上げたオリジナルトリュフ「XO」をチョコレートショップで販売しました。
「ZEROチョコレート」がケータリング&
ギフトとしてパリコレデビュー!2014年7月に開催されたジェレミー・ブエノ氏の2014年秋冬コレクションにて、「ZEROチョコレート」が公式のケータリングフード(舞台裏でモデル用に提供されるスイーツ)及び招待客用のギフトとして採用されました。
2014–2016
パリで20年以上続くチョコレートの祭典
「サロン・デュ・ショコラ」に九州で唯一3年連続出展!パリコレでの「ZEROチョコレート」が評判を呼び、年に一度、パリで開催されるチョコレートの祭典「サロン・デュ・ショコラ」に2014年から3年連続で出展しました。
2015
ミラノ万博2015にて「ZEROチョコレート」が日本代表に採用されました。
2015年、イタリアで開催されたミラノEXPOの 「ジャパン・サローネ」(日本に焦点をあてた特別催事期間)に「ZEROチョコレート」が選ばれました。
2016
パリコレに続き、
ミラノコレクション
でもデビュー!2016年9月、イタリアの2017年春夏コレクションにて、ANTEPRIMAのケータリング・フードとして「ZEROチョコレート」が採用されました。
2017
「LES TROIS CHOCOLATS
PARIS(レ トロワ ショコラ パリ)」がパリのマレ地区にオープン!2015年のサロン・デュ・ショコラで金賞を受賞した三代目・佐野恵美子のショコラトリーが2017年2月、パリのマレ地区にオープン。日本人女性としては初の出店となりました。
LES TROIS CHOCOLATS PARIS
の
店舗情報を見るレ トロワ ショコラ パリ × チョコレート
ショップのダブルネームでリニューアルオープン!2017年2月、パリにオープンした三代目・佐野恵美子の「LES TROIS CHOCOLATS PARIS」とチョコレートショップのダブルネームとして同年10月にリニューアルオープンしました。
レ トロワ ショコラ パリ×チョコ
レート
ショップの店舗情報を見るKRUNK×BIGBANG × チョコレート
ショップ × LES TROIS CHOCOLATS PARISのトリプルコラボチョコレートを発売「BIGBANG JAPAN DOME TOUR 2017 -LAST DANCE-」福岡ヤフオク!ドームでの開催を記念して、KRUNK × BIGBANG × チョコレートショップ × LES TROIS CHOCOLATS PARISのトリプルコラボチョコレートの発売を実施いたしました。
2018
セントラル工場と「チョコレートショップ
山王店」がオープン!業務の効率化と時短のために製造工程を一元化した「セントラル工場」を2018年夏にオープン。工事段階での地域の要望に応え、予定のなかった販売店舗スペースを急遽設け同年8月「チョコレートショップ山王店」としてオープンしました。
チョコレートショップ山王店の
店舗情報を
見る2019
G20 財務大臣・中央銀行総裁会議のレセプションパーティにてチョコレートのご提供
ヒルトン福岡シーホークで開催されたG20福岡財務大臣・中央銀行総裁会議でのレセプションパーティーでスイーツをご提供いたしました。各国をイメージし、いちごや味噌などの福岡の食材を用いたスイーツは各国要人から高い評価をいただきました。
2020
BLACKPINK × LES TROIS CHOCOLATS PARIS × チョコレートショップのトリプルコラボチョコレートを発売
「BLACKPINK 2019-2020 WORLD TOUR IN YOUR AREA」福岡ヤフオク!ドームでの開催を記念してBLACKPINK × LES TROIS CHOCOLATS PARIS × チョコレートショップのトリプルコラボチョコレートの発売を2年連続実施いたしました。
STORY|私たちの物語
STORY1
出会い‥
それは一粒の
トリュフチョコレートでした。
1942年博多の街で産声を上げた店の名は、チョコレートショップ。
業態をそのまま表した、とても大胆な店名です。その店を開いた人の名は佐野源作。大戦を挟み混乱を極めた当時の日本で、チョコレートにこだわり続け、チョコレート作りに自信と誇りを持った人でした。
佐野源作とその意志を継いだ長男、隆との親子2代に渡るチョコレートショップの物語のはじまりは、そこからさらに20数年の時をさかのぼります。
1902年生まれの佐野源作は、その頃、東京の旧帝国ホテルで見習いコックとして働いていました。
当時14、15歳でした。源作はそこで、将来を決定づける運命的なものに出会います。それは一粒のトリュフチョコレート。
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STORY2
こんなチョコレートを
作れる国へ行きたい。当時、ロシア革命で日本に亡命していたロシアの料理人が作ってくれた一粒のトリュフチョコレートを口にした源作は驚き、言葉を失いました。
「これは何なんだ。こんな美味しい食べ物があるのか ‥。こんなチョコレートを作れる国へ行きたい。」彼の瞳に、広い広い世界が映った瞬間でした。
チャンスが巡ってきたのは、それから数年後のこと。外国航路の船のコックとして働きながら、彼はヨーロッパへと渡ります。
日本ではまだ海外旅行という概念すらなかった時代でした。言葉も通じない遥か異国の地で、源作は苦労を重ねながら、誰もが認めるチョコレート職人へと成長するまで、源作は思う存分腕を磨いたのです。STORY3
1930年代末期
帰国した源作は博多に立ち寄ります。時は移り1930年代末。日中戦争が勃発し国は挙国一致をスローガンに戦争の準備を進めていた頃、帰国した源作は博多に立ち寄ります。
当時、博多で隆盛を極めていた繁華街、店屋町でのこと。源作は、恋に落ちました。富美子、それが博多生まれの妻の名でした。1939年、店屋町に腰を落ち着けた源作は、その一角に店を開きます。
チョコレートの専門店、夢の“チョコレートショップ”は、こうして、この街に生まれたのです。
ただ、外国語は当時敵性語として使用は禁止されており、チョコレートの文字を入れて看板を掲げることは叶いません。見上げれば、世界を包み込むほどの深く果てない戦乱の闇が広がりつつありました。STORY4
俺が生きて帰ってこれたら
チョコレートショップという名で
店を再開しよう。1942年、源作の元に徴兵を命令する“赤紙”が届きます。大戦のまっただ中。その夜、夫婦は誓いを立てます。「俺が生きてこの店屋町に還って来れたら、チョコレートショップという名で店を再開しよう。」
覚悟を決めた夕げの食卓には、トリュフチョコレートのほのかな甘い香りとそれに命を懸けた言葉少ない男の情熱が漂っていました。
店は数年前に創業を始めていましたが、源作は敢えてこの日を、店の創業と定めます。それは、「必ず還ってくる」との源作の強い意志の表れだったのです。
1945年、終戦。源作は無事、店屋町に還ってきます。堂々と掲げた看板には、“チョコレートショップ”の文字がありました。STORY5
食卓には、朝昼晩と売れ残った
チョコが上がります。店を再開したものの肝心のチョコレートはずっと鳴かず飛ばずの状態でした。
いくら美味しくても、コッペパン1個15円の頃にトリュフ1個100円の商いでは誰も見向きもしません。
買ってくれるのは、進駐軍のアメリカ人がほとんど。食卓には、毎日朝昼晩と売れ残ったチョコが上がります。
1956年に生まれた長男の佐野隆は、それがごく当たり前の家庭の食事なんだろうと思っていました。
源作はそれでも、ひたむきに本物にこだわったチョコレートを作り続けます。STORY6
時代は、大量生産・大量消費の時代を
迎えようとしていました。防腐剤も添加物も一切使わないチョコレートは、当然日もちはしません。
「カビが生えているぞ!」とそれが分からず怒鳴り込むお客様。
「旨いものには余計なものはいらない。新鮮なものほど時が経てば傷む、当たり前のことだ」と毅然とした態度で、言い放つこともありました。
世の中は、源作のチョコレート作りの想いとはまったく逆の、大量生産・大量消費の時代を迎えようとしていました。STORY7
隆は「家は継がん」
源作に啖呵を切ると、
ついに家を飛び出してしまいます。隆は、小さな頃からチョコレート作りを手伝わされながら育ちました。家族全員で店を切り盛りする日々が続いていました。
1973年には少しでも家計の足しになればとカフェを併設しました。そこで出したカレーが評判となり、徐々にチョコレートも売れ始めていました。
ところが、隆は成長するにつれ、いつもステテコに前掛け姿という、頑固なチョコレート職人としての父親の生き方が、そのまま自分の将来と重なって見えてくるようになりました。
束縛を嫌った隆は「家は継がん」源作に啖呵を切ると、ついに家を飛び出してしまいました。STORY8
隆は通りでたまたま目にした
求人募集を頼りにパン屋を訪ねます。大学2年、1974年のことです。「持っている金で少しでも遠くの街へ」それが神戸でした。
行く当てもない隆は、通りでたまたま目にした求人募集を頼りにドンクというパン屋を尋ねます。
そこには、白衣姿のオシャレなコックたちが働いていました。同じ職人である父親との格好の違いに、がく然としました。
仕事も決まり神戸の町にも馴染んできたある日のこと。隆は当時付き合っていた彼女にチョコレートをプレゼントしようと、店の余った材料を分けてもらい、身に染み込んだあのトリュフチョコを手作りします。
「なんでお前にこんなチョコがつくれるんだ?」いつの間にか、隆は先輩のシェフたちに囲まれていました。STORY9
「親父を超えるチョコレートを
創りたい。」
彼はスイスへと発ちます。「ドンクの当時の社長さんは父の名前はご存知でしたね」
隆は当時を振り返ります。
彼が知ったのは、佐野源作の名は神戸に止まらず、遠く東京・関東圏の業界人の間でも既に有名であったという事実です。
「親父を超えるチョコレートを創りたい」
彼は源作のルーツを辿るようにスイスへと発ちます。
その後、帰国した隆は、源作にこれまでのことを謝ると、自分の新作を店に並べることに精進します。
ところが、人気があったのは目新しかった最初の頃だけで、売れるのは源作のチョコレートばかり。
「みんな分かっとらん」
開き直りもしますが、一向に状況は変わりません。STORY10
隆は三度、源作の作る
チョコレートの奥の深さを知ります。隆は、源作の作るチョコレートの奥の深さを知ります。
「もう一度ゼロから、親父のチョコを研究し直そう」体温で
溶けだす1ミリにも満たない薄い外皮と炊き上がった白米のような優しい弾力を持つガナッシュ。その食感のコントラストこそ、源作が自分自身で極めた技です。
それには、春夏秋冬、日々異なる室温の中にあっても完璧に温度調整(テンパリング)できる感覚と技術の習熟が必須でしたが、幼い頃から源作のチョコレート作りを手伝ってきた隆に、その基礎は自然に備わっていました。STORY11
職人としての生き方を極める、
そのための努力の積み重ねが
必要でした。後は職人としての生き方を極める、そのための努力の積み重ねが必要でした。
隆はこの時を境に、寝食を忘れ、技術の鍛練と研究に明け暮れる日々を送ります。
ある朝のこと。 源作は、隆が作ったチョコレートをショーケースの一番真ん中にある、売れ筋のトレイに並べてくれました。それは、源作から隆への無言の誉め言葉でした。
一筋に生きる職人としてのプライドが自身にも芽生えたことを隆は感じます。「少しでも多くの人にこの店の魅力を伝えたい」
自信を深めた隆は、当時まだ珍しかったデセールをカフェで出すことを思いつきます。STORY12
真心を込めて手作りした
チョコレートは、
今日もいつものように店に並びます。これが行列ができるほどの人気を集め、後は評判が評判を呼び、チョコレートも飛ぶように売れ始めたのです。
1945年 源作が創業を定めてから、実に43年の時が過ぎていました。
1990年、源作は亡くなります。そのわずか2年後、 妻の富美子も源作の後を追うように旅立って行きました。
それから20有余年。目新しかったデセールも、家計を助けたカレーやカフェも、今はもうありません。チョコレートショップは、あの日、源作が願いを込めたその名の通りの“チョコレートショップ”になりました。
現在は、世界各国で作られたたくさんの種類のチョコレートをブレンドして、日本人好みの味、食感にこだわったトリュフチョコレートやチョコレート菓子をご用意しています。その他にも、生菓子、半生菓子、焼菓子と、おやつ用からギフト用まで幅広く、変わらず毎日手作りで仕上げ、今日もいつもの様にお店に並びます。